留野楽奈です。
昨日は絵本の世界、物語の世界がどれだけ癒しを与えるかについて語りました。
今日はある物語を作ってきましたのでそれを読み聞かせたいと思います。
その前に私をとり巻いた学校の世界
昔はどんな先生であっても好き勝手生きてのんびり暮らしてそれでやっていけました。
それがちょうど変わり始めたのが私が学校の先生になった当初・・・
何十時間と続く研修、終わらない教材準備、そして指導という名のイジメ・・・。
一部の選ばれたエリートはどんどんバケモノと化し、弱い者は去っていくか壊れていく・・・。
そんなのが教員の今の世界です。もう狂ってるとしか思えない・・・。
希望さえ見えない戦場です。
私は弱い者でした。そして去っていった者です。
ただ、残された子どもの顔を思い出すとやりきれなさが残るんですよね・・・。
まだ現場で残してきた宿題がある気がする。何か残してきた気がするんだ・・・。
教員を辞めて十何年。それが物語の読み聞かせにあることにふと気がつきました。
よし!やってみよう!しかし・・・
カウンセリングで気づいた私は近所の図書館に応募していました。
しかし・・・
「今年度の募集は締め切りました!ちなみにできるのは年1回だけです!平日は空いていますか?空いていないのならお断りします!」
ガーン・・・。
もうすでに私は会社に勤めており、年休も残りわずか。これでは・・・。
しかしあきらめきれない・・・。何とかしたい・・・・。どうすればいいか・・・。
しかたなくネットで方法を探る日々。すると・・・。
「絵本の読み聞かせ講座」というものが。
よし、図書館でできないのならやってみよう!とチャレンジ。
回を重ねることに絵本の魅力に憑りつかれる私・・・。近くの書店に絵本を捜し歩く日が待ち遠しくて仕方がありませんでした。
そこで実際に自作の絵本の読み聞かせをしたい、という思いを先生にぶつけたところ・・・
「留野さんの読み聞かせは子どもたちにとって宝物になる可能性を秘めているわ。きっと留野さんの読み聞かせを聞いた子どもたちは大人になってもその宝物を大切にしていると思うの」
・・・。ええ!!
そこで自分で何とかできないかと探ってみたところ、どうやらブログでもそういうことができそうだ、ということが判明しました。
そしてようやく形になったものの最初の1ページ目がこちらです。
「よみきかせ」
あるがっこうにあたらしいせんせいがやってきました
ところがそのせんせいはいちねんせい。まだじゅぎょうのおしえかたもならっていません
おまけにたいいくもじょうずではなく、きかいのそうさもできませんでした
あるたいいくのせんせいは「おまえはばかだ。たいいくはこうやるんだ。かっこいいだろ。おまえもやってみろ。どうせできっこないがな。ははは」といってばかにしました
あるじゅぎょうのじょうずなせんせいは「おまえはばかだ。じゅぎょうはこうやってきれいにやるもんだ。おまえもやってみろ。どうせできっこないがな。ははは。」といってばかにしました
あるきかいのそうさがうまいせんせいは「おまえはばかだ。きかいのそうさはこうやっていいつけどおりにやるとうまくいくもんだ。おまえもやってみろ。どうせできっこないがな。ははは。」といってばかにしました
あるひあたらしいせんせいはこうちょうせんせいによびだされました。「いまからあなたにじゅぎょうをしてもらいます。じょうずにできなかったらやめてもらいますからね」
あたらしいせんせいはこまりました。どうしようじゅぎょうのやりかたなんておそわってない。たいいくもできない。きかいのそうさもできない。どうしよう
しかたなくあたらしいせんせいはきょうかしょをじぶんなりにくふうしてよみかんそうをきくじゅぎょうをおもいつきました。「これでやめるのならしょうがない」あたらしいせんせいはかくごをきめてきょうしつへはいっていきました
きょうしつでまっていたのはきんちょうしていたこどもたち。そのうしろでこうちょうせんせいとたいいくのじょうずなせんせいとじゅぎょうのじょうずなせんせい、きかいのそうさがうまいせんせいがこわいかおでまっていました
あたらしいせんせいはきょうかしょをよみきかせました。しかしそのこえはきんちょうしていたこどもたちにやすらぎをあたえ、まるでしぜんに、じょうけいがうかぶようなしらべでした。あたらしいせんせいがよみおえるとこどもたちからは「すごい!」「えがうかぶ!」「きれいなこえ!」とわっとかんせいがあがりました
しかしそんなこどもたちのこえをかきけすようにうしろのせんせいたちはおおごえで「さいていのじゅぎょうだ!」としかりました
たいいくのじょうずなせんせいは「いいか。よみきかせっていうのはこうやるんだ」とおてほんをみせました。おわったとたん「どうだ、かっこいいだろう」とききました
ところがこどもたちは「おおごえでどなってばっかりでこわいよ」とびくびく
こんどはじゅぎょうのじょうずなせんせいが「いいか。よみきかせっていうのはこうやってやるんだ」とおてほんをみせました。おわったとたん「どうだ、きれいだろう」とききました
ところがこどもたちは「なんかじゅぎょうをやってるかんじでたいくつしちゃうよ」とあきあき
こんどはきかいのそうさがうまいせんせいが「いいか。よみきかせっていうのはこうやってやるんだ」とおてほんをみせました。おわったとたん「どうだ、いいつけどおりにやっただろう」とききました
ところがこどもたちは「なにこれ。すごくへん」とちんぷんかんぷん
こうちょうせんせいはこまったかおであわてていました。「どうして。たいいくのじょうずなせんせいもかなわない。じゅぎょうのじょうずなせんせいもかなわない。きかいのそうさがうまいせんせいもかなわない。あたらしいせんせいなんてなにもできないからやめてもらうつもりだったのにこまったわ」
じつはうしろにもうひとりこうちょうせんせいよりえらいひとがいました。そのひょうじょうはにっこり
「どうやらあたらしいせんせいにはなにかこどもたちをよろこばせるものがあったようです。どうかこのがっこうにおいてやってくれませんか?」
こうちょうせんせいはがっくり。ほかのせんせいたちもがっくり。あたらしいせんせいとこどもたちはわっとよろこびあいました。「よかった」「ほんとうによかった」
それからなんじゅうねん。あたらしいせんせいのところにはおおぜいのこどもたちのわができています。「いいかい。きょうのよみきかせは・・・」そのひょうじょうはしあわせであふれかえっていました。よかったね
おしまい
まとめ:運動できるだけが能力じゃない。授業ができるだけが能力じゃない。コンピューターができるだけが能力じゃない。こんな能力があってもいいじゃないか。
ま、昨日の話を物語にするとこんな感じです。
大概、体育のできる先生というのは優遇されます。
授業のできる先生というのも優遇されます。
最近ではパソコンができる先生というのも優遇されます。
んじゃ、弱い先生は何もできないの?強い先生だけが優遇されるの?
実際、現在の学校というのはそんなところです。強い者だけが生き残り、弱い者は淘汰される弱肉強食の世界。それが学校です。
でも、こんな読み聞かせの能力を持っていたんですね。
私の最後の授業も「最低の授業」と酷評されました。
でも、それが2年たって・・・3年たって・・・大人になってもそれが残る・・・。
それって素晴らしい能力だと思いませんか?
正直、それがこんな宝物になってるなんて気づくまで十何年もかかるなんて、私はなんて愚かなんだ・・・、と思います。
ただ、今気づけただけで自分の中の能力を証明できたことが嬉しくて・・・、子どもたちのあの時の笑顔が忘れられなくて・・・。それだけでよかったなって思っています。
今気づけていないだけ。あなたには素晴らしい能力が秘められている。
そう思っていただければ幸いです。
あなたにも・・・。そう!このブログを見ているあなたにも素晴らしい能力が秘められていると思うとそれだけで前へ進めそうな気がしてきませんか?
そう信じています。
きょうはこれでおしまい。おやすみなさい。良い夢を。
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